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2016.05.12 おくりびとからのメッセージ「毛利元就の遺言」

武田徹:県内のおくりびとって増えていらっしゃるの?

篠原憲文:死後処置にあたる方々の地位向上や仕事としての認知もあってとても増えてきているようですね。女性が多いようですが。

武田徹:男性よりも女性の方が多いの?

篠原憲文:どちらかというと女性が多いようです。看護士をしている方でそういう職に流れるような方がいたり、色々ですね。

武田徹:そういうことなんだ。試験のようなものはあるんですか?

篠原憲文:基本的に試験などの制度はなくて、実務を積んでいく形になりますね。

武田徹:皆さんもおくりびとのイメージが何となく分かるような時代になってきたと思います。さて、本日は「遺言状」のお話ということで。

篠原憲文:先般から有名人の遺言書のご紹介をしてきておりますけれども。

武田徹:今日はどなたですか?

篠原憲文:今日は毛利元就さん。

武田徹:戦国時代でございますね。

篠原憲文:そうですね。毛利元就さんは戦国時代の前半期からご活躍をされた方で、年代からすると1497年の生まれですから。

武田徹:なるほど。

篠原憲文:いわゆる織田信長などの方々の一つ、二つ前ぐらいの世代になりますかね。

武田徹:元就さんといえば、三本の矢で有名じゃないですか。

篠原憲文:まさにその三本の矢が、元就さんが残されたメッセージであり遺言だったのですが、遺言として残すものというのはやはり人生を反映していたりしますよね。本日は毛利元就さんの半生をお話しながら、この方がどういう言葉を後の人や子供たち残したのかというのをご紹介したいと思います。毛利元就さんの父は安芸国の領主だったんですね。そして後に元就さんは戦国大名、大大名といいますか。

武田徹:領地がデカかったんだよな。

篠原憲文:そうですね。中国地方を制覇するようだったのですが。その元就さんは、実はお生まれが長男ではなくて、正当な毛利家の後継者では元々なかったりとか、実は元就さんの父は元々大江という名字の家の一族なのですが、そこの四男から継いでいったお名前ということで。実は元々から国を任されていたと言うか、古くからの皇后の大内家という。

武田徹:義弘という人がいましたなぁ。

篠原憲文:そうですね。こちらからか守護されていまして、主君として分け与えられていた領地を守っていた一族だったんですね。この元就さんという方を評する時に、戦国最高の知将と言われたり、謀をすれば右に出る者はなしという。

武田徹:まあ謀をしないと領地は増えないからな。あるいは保てないもんね。

篠原憲文:その通りでございますね。

武田徹:真田昌幸と一緒でございますからねぇ。

篠原憲文:長野県では今もまさにその時代が熱い注目をされていますが。特に中国地方、北九州から瀬戸内海を挟んで四国、中国地方、関西には当時の足利の幕府もあれば朝廷もあって複雑な場所だったようでして、様々な謀を以て国を守るということがあったようです。先程、武田先生が仰られた三本の矢の話が一番有名なのですが、元就さんが、息子の隆元さん、元春さん、隆景さんを呼び寄せて矢を一本渡して折らせるのですが、三本まとめると折れないという、まさに兄弟で力を合わせなさいという教訓なのですが。実はこの三本の矢というのは戦前の教科書にも載っていたそうですし、今日的にも様々なところでモチーフになっていまして、サンフレッチェ広島というサッカーのチームがあるのですが、サンフレッチェのサンというのが、数字の3なんですよね。

武田徹:そこからきているんだ。

篠原憲文:そしてフレッチェというのはイタリア語で弓矢の矢のことで、チームのエンブレムにも三本の矢が描かれていて、一致団結しようという意味で使われているのですが。

武田徹:そういうことか。

篠原憲文:他にも陸上自衛隊第13旅団という、広島安芸郡にあるのですが、ここでも三本の矢が使われていたり、あとは今政権を担う安倍政権。

武田徹:経済の三本の矢でございますな。

篠原憲文:その通りでございます。アベノミクスの三本の矢ということで、これは金融政策、財政政策、民間投資の成長戦略ということで三本の矢ということなのですが、今日も身近なところに残る、逸話として伝わる三本の矢、これは元就さんが息子たちに伝えた三子教訓状という、三人の子供への教訓状ですね。これが14か条にわたって遺訓として残されているのですが、これがまさに毛利元就の遺言が今日も活きているというところで、身近なところにもみられるということなんです。毛利元就さんは大名家でもなくそこまで恵まれた環境にもなかった、そして実は子供の頃は目も当てられないようなひどい時期があったようで。

武田徹:なるほど。

篠原憲文:父親は毛利弘元さんという方で、長男ではないということだったのですがお兄さん、嫡男といいますか、秋元さんという方がある意味で正当な後継者だったんですね。で、元就さんの幼い頃の名前が松寿丸というお名前だったそうなのですが、父親は大内家を頼っていたのですけれども戦乱の中で幕府との抗争に巻き込まれて、ある種の責任を取る形で隠居されるのですね。元就さんが生まれて間もない頃、3歳ぐらいの頃には父親が隠居されて。

武田徹:大変苦労したんだ。

篠原憲文:そうですね。そうすると息子、嫡男が家督を継ぐのですけれども、そうは言ってもまだまだ長男も若いですからなかなか足場が固まらないという中で、3歳だった松寿丸は父親に連れられて田舎の多治比猿掛城という山の中のお城へ行くんですね。程なくして、5歳の頃に母親が亡くなられて、松寿丸が10歳のときに父親も亡くなられてしまうんですね。この時弘元さんは、いわゆるお酒の飲み過ぎといいますか、アルコール中毒のような形だったそうでして。

武田徹:なるほどねぇ。

篠原憲文:周囲にいた家族も大変だったと思うのですが。

武田徹:うん。

篠原憲文:そういった状況で亡くなられて、そして両親とも亡くなってしまった中で松寿丸はそのまま猿掛城に住んでいたそうなのですが、実は家臣に所領を横領されてしまう事件がありまして。

武田徹:これが戦国時代ですなぁ。

篠原憲文:そうですね。若くして城の主になったのですが追い出されてしまったんですね。あまりにその境遇の酷さに周囲から乞食若殿なんていう呼び名で言われてしまうぐらい質素で、あばら家のような所で生活するようなことがあったと。そういった中で、父親の継室になる杉大方という方が養母として支えてくれて、不憫に思って教育を付けたりしたんですね。また、晩年まで元就さんは朝の念仏を欠かさなかったと言われているのですが、この習慣は杉大方に学習の中で教えていただいたと言われていて。毛利元就がその頃に晩年を振り返って、我は5歳で母に別れ、10歳で父を失った。11歳のとき兄が京に上ったので孤児になったと晩年語っているのですが、従来まで非常に波乱万丈の中で生活をしていて。そして当時15歳になったときに、京都に行ったお兄さんの興元さんに書状を送って、分家を建てるから許してくれということで、毛利ではなくて丹比元就という名前で分家を建てたんですね。そして分家を建てて5年程して20歳を迎えた頃に、お兄さんも亡くなってしまうんですね。

武田徹:なるほど。

篠原憲文:実はお兄さんもアルコール中毒で亡くなってしまうという。

武田徹:皆遺伝してるのかね?

篠原憲文:アルコールで亡くなってしまうんですよね。

武田徹:ほぉ。

篠原憲文:ですので、元就さんは以降お酒の場に出ても、自ら下戸なんだと言っていたそうです。

武田徹:立派ですね。

篠原憲文:自分の子供にも伝えるために、お酒を飲みすぎてはいけないということを教訓状に残していて。そうは言っても、部下たちがお酒を飲んだりしますので、お酒を飲まない人には餅を与えたと言われていて、本当に下の者の心を気遣うことができる人だったんですね。振り返っていっても、非常に不遇な時代を過ごしていて、お兄さんが亡くなった後、お兄さんの子供が毛利を名乗っていって。

武田徹:そういうことだよな。

篠原憲文:父も兄も亡くなって興本さんの子供の幸松丸が継いだのですがまだまだ若くて、さらに若い元就が後見人をするという形ですから、周囲から攻め込まれるんですよね。

武田徹:なるほどねえ。

篠原憲文:本当に、毛利家の命運をかけて分家の丹比元就が盾となって戦うという。これが当日の戦国の桶狭間と言われるような、非常に戦力差があって、誰もが見ても負けるよねという中で大勝利を収めるという初陣があって。

武田徹:うん。

篠原憲文:当時27歳での初陣になったそうなのですが。それからメキメキと毛利の一族の中でも丹比元就は凄い出来人であるということで、最終的には重臣の推挙があって、実はこの幸松丸も9歳の時に亡くなってしまうんですね。

武田徹:それで毛利家を継ぐことになったんだな。

篠原憲文:ただ、この幸松丸が亡くなったのも病気ではないと様々な考察がありまして。

武田徹:暗殺か?

篠原憲文:暗殺の可能性もあるということで。

武田徹:なるほどなぁ。

篠原憲文:ですから本当に苦労した中で毛利を襲名していった方なんです。で、実は元就さんは27歳で初陣をしてから亡くなった75歳までの間に、なんと出陣数が公式発表だけで220回ぐらい。

武田徹:凄いですね。何勝したんだろうね?

篠原憲文:勝数は分からないのですが、酷い敗戦もあったそうですが勝率も高くて、策略にかけて非常に優れていたと言われていますが、策略に優れて人の心をある意味掌握出来る人だったからこそ、息子たちに人の心の難しさということを沢山説いているんですよね。

武田徹:うーん。

篠原憲文:実は三本の矢のエピソードが出てくるこの三子教訓状なのですが、中々親子や兄弟関係の難しさ、そして自分たちが滅ぼした一族との間の難しさもあるということで、当時では普通だったようですが子供を養子に出して血縁を結ぶ中で地域をまとめていくということがありますよね。

武田徹:はいはい。

篠原憲文:毛利家の場合は自分の子供の隆元が嫡男として継いでいくのですが、二男、三男を近隣の有力な家に養子に出すわけです。次男は吉川家というところ、そして三男は水軍が強いことで有名だった小早川家というところへ行きます。これが毛利両川体制という。

武田徹:つまり、川が2つあるから両川。

篠原憲文:そうですね。吉川と小早川、共に力を合わせてということなのですが、この14か条の内、少し読み上げていきたいと思うのですが、実は元就さんは非常に手紙が長くてくどい事で有名だったんですね。

武田徹:ほぉ、なるほど。

篠原憲文:14か条の遺訓というのは、身幅2.85mに及ぶと言われているんです。

武田徹:素晴らしい。

篠原憲文:実は同じことが何度も繰り返し書いてあって、つまり一行で言うならば毛利の苗字を末代まで廃れないようにしてくれと。

武田徹:なるほど。

篠原憲文:ただこれだけのことなのですが、同じことを繰り返し書いてあるという。戦国の手紙研究者の評価によりますと、苦労人であった為かもしれないけれども非常に説教くさいところがあると表されているのですけれども。

武田徹:で、その遺言はいつ書いたんですか?

篠原憲文:元就さんが60歳、還暦を迎えて少しした頃に残したと言われていまして。亡くなられたのは75歳ですから、60歳の頃というのはまだまだ元気だったんですよね。

武田徹:そういうことだったんですか。でも毛利家、名は残ったんじゃないですか。今龍馬やってるでしょ?結局関ケ原で毛利の輝元さんが西軍に味方しちゃったがために領地が三分の一になって、長州ということでずっと二百数十年幕藩体制で我慢して、龍馬の頃ようやく長州藩がまた盛り返してきますよね。

篠原憲文:そうですね。

武田徹:そして結局明治維新を完成させて現在に至っていると。毛利家はずっと残るわけだよね。

篠原憲文:本当ですね。長州藩の祖だと言われていますから。

武田徹:元就さんが言ったのは、領地は減ったけれども残ったということですよね。

篠原憲文:まさに天下を競望せずという、輝元は天下を望んでしまったのですが、その輝元にも諌める言葉を言っていたんですよね。自分の領地は10つあるけども、仮に一回危機があっても、半分減らしても5つ残る。もう一回危機があって半分になっても2つ残ると。それで十分なんだと言っているんですけど。

武田徹:なるほどね。三分の一が残ったんだけど明治維新、ちゃんと元勲がいっぱいいるじゃん。桂小五郎だとかさ。という長い歴史のお話、遺言は大事だよというお話しでございました。

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