県内のおくりびとって、増えていらっしゃるの?
死後処置にあたる方々の地位向上や仕事としての認知もあって、とても増えてきているようですね。特に、女性が多いようですが。
男性よりも女性の方が多いの?
そのようです。様々な理由はあると思いますが、看護士をしている方でそういう職に流れるような方がいたりするそうですね。
そういうことなんだ。試験のようなものはあるんですか?
基本的に試験などの制度はなくて、実務を積んでいく形になりますね。
なるほど。さて、本日は「遺言状」のお話ということで。
先般から有名人の遺言書のご紹介をしてきておりますけれども、本日は毛利元就さんの遺言書についてお話したいと思っております。
戦国時代でございますね。
そうですね。毛利元就さんは戦国時代の前半期からご活躍をされた方で、年代からすると1497年の生まれですので、織田信長さんなどの方々の一つ、二つ前ぐらいの世代になりますかね。
元就さんといえば「三本の矢」で有名じゃないですか。
まさにそれが、元就さんが残されたメッセージであり遺言だったのですが、やはり遺言として残すものというのは、人生を反映しているものですよね。
本日は毛利元就さんの半生をお話しながら、この方がどういう言葉を後の人や子供たち残したのかというのをご紹介したいと思います。
よろしくお願いします。
毛利元就さんの父親は安芸国の領主でして、後に元就さんは戦国大名、大大名といいますか。
領地がデカかったんだよな。
そうですね。中国地方を制覇するようだったのですが。その元就さん、実は正当な毛利家の後継者ではなく、長男ではなかったり。元就さんの父親は、元々「大江」という名字の家の一族で、そこの四男から継いでいったお名前ということで。実は元々から国を任されていたと言うか、古くからの皇后の大内家という。
義弘という人がいましたなぁ。
そうですね。主君として分け与えられていた領地を守護していた一族だったんですね。この元就さんという方を評する時に「戦国最高の知将」「謀をすれば右に出る者はなし」という言葉が出てきますが。
謀をしないと領地は増えないし、保てないもんね。
その通りでございますね。
真田昌幸と一緒でございますから。
長野県では現在もその時代が注目を浴びていますが。特に中国地方、北九州から瀬戸内海を挟んで四国、中国地方、関西には当時の足利の幕府や朝廷もあって、複雑な場所だったようで、様々な謀を以て国を守っていたようです。
なるほど。
先程、武田先生が仰られた「三本の矢」が一番有名な話で、元就さんが、息子の隆元さん、元春さん、隆景さんを呼び寄せて、矢を一本渡して折らせるのですが、三本まとめると折れないという。つまり、兄弟で力を合わせなさいという教訓のお話なんですが、このお話は戦前の教科書に載っていたり、今日的にも様々なところでモチーフになっています。例えば、サンフレッチェ広島というサッカーのチームがあるのですが、「サン」フレッチェが数字の3という意味で。
そこからきてるんだ。
そして、サン「フレッチェ」というのは、イタリア語で弓矢の矢のことで、チームのエンブレムにも三本の矢が描かれていて、一致団結しようという意味で使われていまして。
そういうことか。
他にも、広島安芸郡にある陸上自衛隊第13旅団でも三本の矢が使われていたり、あとは今政権を担う安倍政権。
経済の三本の矢でございますな。
その通りでございます。アベノミクスの三本の矢は、「金融政策」「財政政策」「民間投資」の成長戦略ということなのですが。
今日も身近なところに残る、逸話として伝わる「三本の矢」。元就さんが息子たちに伝えた三子教訓状が14か条にわたって遺訓として残されているのですが、つまり毛利元就の遺言が今日も活きていて、身近なところでみられるという。
なるほど。
実は、毛利元就さんは大名家ではなく、そこまで恵まれた環境ではなく、子供の頃は目も当てられないようなひどい時期もあったようで。
そうなんですか。
父親は毛利弘元さんという方で、長男ではないということだったのですが、お兄さん、嫡男といいますか、秋元さんという方がある意味で正当な後継者だったんですね。で、元就さんの幼い頃の名前が松寿丸というお名前だったそうなのですが、父親は大内家を頼っていたのですけれども、戦乱の中で幕府との抗争に巻き込まれて、ある種の責任を取る形で隠居されるのですね。元就さんが生まれて間もない頃、3歳ぐらいの頃には父親が隠居されて。
大変苦労したんだ。
そうですね。そうすると息子、嫡男が家督を継ぐのですけれども、そうは言ってもまだまだ長男も若いですから、なかなか足場が固まらないという中で、3歳だった松寿丸は父親に連れられて田舎の多治比猿掛城という山の中のお城へ行きます。程なくして松寿丸が5歳の頃に母親が亡くなられて、10歳の頃に父親も亡くなられてしまいます。この時弘元さんは、アルコール中毒のような状態で亡くなられたようで。
なるほどねぇ。
周囲にいた家族も大変だったと思うのですが。
そうでしょうなぁ。
両親とも亡くなってしまった中でも、松寿丸は猿掛城に住んでいたそうなのですが、実は家臣に所領を横領されてしまう事件がありまして。
これが戦国時代ですなぁ。
若くして城の主になったのに追い出されてしまったんですね。その境遇の酷さに、周囲から乞食若殿なんていう呼び名で言われてしまうぐらい質素であばら家のような所で生活する時期があったと。そういった中で、父親の継室になる杉大方という方が養母として支えてくれて、不憫に思って教育を付けたりしたんですね。
なるほど。
また、元就さんは朝の念仏を欠かさなかったと言われているのですが、この習慣は杉大方に学習の中で教えていただいたと言われていて。毛利元就がその頃に晩年を振り返って「我は5歳で母に別れ、10歳で父を失った。11歳のとき兄が京に上ったので孤児になった」と晩年語っているのですが、従来まで非常に波乱万丈の中で生活をしていて。そして当時15歳になったときに、京都に行ったお兄さんの興元さんに書状を送って、分家を建てるから許してくれということで、毛利ではなくて丹比元就という名前で分家を建てたんですね。そして分家を建てて5年程して20歳を迎えた頃に、お兄さんも亡くなってしまうのですが、実はお兄さんもアルコール中毒で亡くなってしまうという。
遺伝してるのかね?
ですので、元就さんは以降お酒の場に出ても、自ら下戸なんだと言っていたそうです。
立派ですね。
自分の子供にも伝えるために、お酒を飲みすぎてはいけないということを教訓状に残していて。そうは言っても、部下たちがお酒を飲んだりしますので、お酒を飲まない人には餅を与えたと言われていて、本当に下の者の心を気遣うことができる人だったんですね。振り返っていっても、非常に不遇な時代を過ごしていて、お兄さんが亡くなった後、お兄さんの子供が毛利を名乗っていって。
そういうことだよな。
父も兄も亡くなって興本さんの子供の幸松丸が継いだのですが、まだまだ若くて、さらに若い元就が後見人をするという形ですから、周囲から攻め込まれるんですよね。
なるほどねえ。
本当に、毛利家の命運をかけて分家の丹比元就が盾となって戦うという。これが当日の戦国の桶狭間と言われるような、非常に戦力差があって、誰もが見ても負けるよねという中で大勝利を収めるという初陣があって。
うん。
当時27歳での初陣になったそうなのですが。それからメキメキと毛利の一族の中でも丹比元就は凄い出来人であるということで、最終的には重臣の推挙があって、実はこの幸松丸も9歳の時に亡くなってしまうんですね。
それで、毛利家を継ぐことになったんだな。
ただ、この幸松丸が亡くなったのも病気ではないと様々な考察がありまして。
暗殺か?
暗殺の可能性もあるということで。
なるほどなぁ。
ですから、本当に苦労した中で毛利を襲名していった方なんです。で、実は元就さんは27歳で初陣をしてから亡くなった75歳までの間に、なんと出陣数が公式発表だけで220回ぐらい。
凄いですね。何勝したんだろうね?
勝数は分からないのですが、酷い敗戦もあったそうですが勝率も高くて、策略にかけて非常に優れていたと言われていますが、策略に優れて人の心をある意味掌握出来る人だったからこそ、息子たちに人の心の難しさということを沢山説いているんですよね。
う~ん。
実は、三本の矢のエピソードが出てくるこの三子教訓状ですが、中々親子や兄弟関係の難しさ、そして自分たちが滅ぼした一族との間の難しさもあるということで、当時では普通だったようですが子供を養子に出して血縁を結ぶ中で地域をまとめていくということがありますよね。
はい。
毛利家の場合は自分の子供の隆元が嫡男として継いでいくのですが、二男、三男を近隣の有力な家に養子に出すわけです。次男は吉川家というところ、そして三男は水軍が強いことで有名だった小早川家というところへ行きます。これが毛利両川体制という。
つまり、川が2つあるから両川。
そうですね。吉川と小早川、共に力を合わせてということなのですが、この14か条の内、少し読み上げていきたいと思うのですが、実は元就さんは非常に手紙が長くてくどい事で有名だったんですね。
ほぉ、なるほど。
14か条の遺訓というのは、身幅2.85mに及ぶと言われているんです。
素晴らしい。
実は同じことが何度も繰り返し書いてあって、つまり一行で言うならば毛利の苗字を末代まで廃れないようにしてくれと。
なるほど。
ただこれだけのことなのですが、同じことを繰り返し書いてあるという。戦国の手紙研究者の評価によりますと、苦労人であった為かもしれないけれども非常に説教くさいところがあると表されているのですけれども。
で、その遺言はいつ書いたんですか?
元就さんが60歳、還暦を迎えて少しした頃に残したと言われていまして。亡くなられたのは75歳ですから、60歳の頃というのはまだまだ元気だったんですよね。
そういうことだったんですか。でも毛利家、名は残ったんじゃないですか。今龍馬やってるでしょ?結局関ケ原で毛利の輝元さんが西軍に味方しちゃったがために領地が三分の一になって、長州ということでずっと二百数十年幕藩体制で我慢して、龍馬の頃ようやく長州藩がまた盛り返してきますよね。
そうですね。
そして結局明治維新を完成させて現在に至っていると。毛利家はずっと残るわけだよね。
本当ですね。長州藩の祖だと言われていますから。
元就さんが言ったのは、領地は減ったけれども残ったということですよね。
まさに天下を競望せずという、輝元は天下を望んでしまったのですが、その輝元にも諌める言葉を言っていたんですよね。自分の領地は10つあるけども、仮に一回危機があっても、半分減らしても5つ残る。もう一回危機があって半分になっても2つ残ると。それで十分なんだと言っているんですけど。
なるほどね。三分の一が残ったんだけど明治維新、ちゃんと元勲がいっぱいいるじゃん。桂小五郎だとかさ。
という長い歴史のお話、遺言は大事だよというお話しでございました!ありがとうございました。